人間性。

交差点を車が曲がろうとする時、歩行者が横断歩道を渡っている風景をよく見かけるが、その中には、ゆっくりと横断歩道を渡る人がいる。

たしかに、歩行者優先なのでゆっくり歩いて渡っても問題はないのだが、小走りで渡ればその分、車も待たなくて済む。どうして、そうしないのか?と毎度、不思議に思う。そういうと、「青なんだから、急ぐ必要はない。」「そんな細かいこと、どうでもいい。」と言われてしまうかもしれないが、どうも品がなくていけない。そういう些細なところに、人としての道徳心が垣間見える。

100円ショップで、一つ二つの商品に1万円を出す人も、歩きながらスマホを見ている人も同じで、どうも様子がよろしくない。マナーも品もあったものではない。

品行方正な言い方をすれば、“譲り合いの精神”ともいうべきものが欠落しているように思える。相手がいることを完全に忘れ、独り善がり。

こういう人は、いざ自分がその立場になると烈火の如く怒り出すから始末が悪い。

 

野に租であるが、碑ではない。

ワーワー騒ぎ立てる世の中だからこそ、最後の一線。人間としての品格は持っていたいものだ。

 

 

 

 

 

 

便利になると、人は馬鹿になる。

最近、ハンズフリーホンとやらを使っている人を街なかで見かけるが、傍から見ると異様でしかない。

一人でしゃべっていることが、どれだけ狂気に映るのか分かってない。

スマホを持っているから成立するものを、スマホを持たずに歩いてどうする。

そのうえ、相手に聞き取りやすいようにと思うのか、かなり大きな声で話している人がいる。その姿は、完全にヤバイ奴。

「今の時代、常識でしょ。」とでも言いたげな顔で話しながら歩いているが、そんなにスマホを持つのが億劫か。そんなスマホが重いのか。

運転中や何かをしている時なら理解はできる。ハンズフリーの真骨頂。これほど便利なモノはない。

しかし、歩いているだけならスマホを持て。それがマナーだ。

中には、身振り手振りで話している人もいる。じゃあ、持て。身振り手振りするほど、手が空いているのならスマホを持て。それがマナーだ。

常識でしょ。と思っていることが、非常識。ただの迷惑。周りを見て歩け。

 

便利とは、私たちの生活には必要不可欠なもの。しかし、便利すぎるというものが、この世に多く存在する。それだけ聞くと、とてもいいことのように思えるかもしれないが、充分足りているところに余計なものをあれやこれやとくっつけてしまい、決して使い勝手のいいものではない。

それに特段、私たちの生活に必要なものでもないし、逆に不必要なものがてんこ盛り。

はっきり言ってしまえば、あってもなくてもどっちでっもいいようなものが、便利すぎるの正体。

便利すぎるは、便利の最上級の言葉ではない。

それに便利すぎると厄介だ。常識やモラルが欠如する。欠如するということは、周囲の目が気にならなくなるということ。

こうなると無敵だ。“恥”という感覚がなくなるのだから。

厚顔無恥。これほど害悪なものはなく。吠えまくる犬より質が悪い。

 

こういう人たちを見かけると、「日本は“恥”の文化なんだな。」と、つくづく思う。

“恥”という価値観を持っていれば、誰が見てるとか、見てないとか、バレる、バレないなど関係なく、自分にとってそれが“恥”だと思うと、発言や行動に自然と歯止めがかかる。ここに日本人としての、美学がある。

欧米人の「死ぬ前に懺悔をすればOK。」というような大雑把な考え方とは違うのだ。

 

国が豊かになると、自由がやたらと幅を利かせるから困ってしまう。

これも欧米の影響なのか?それとも先進国の宿痾なのか? なんだか、世知辛い世の中になってしまったものだ。

 

私も清廉潔白に生きているワケでもないし、人に自慢するような生き方をしてきたワケでもない。しかし、人様の迷惑にならないよう心掛け、毎日生きている。

そういう生き方は、別に難しい生き方ではない。誰にでもできること。

見栄えばかり気にして、“恥”を気にしてない人が多いように思える。

 

便利を一つ得るということは、恥を一つ捨てるということ。

たかがハンズフリーホン。されどハンズフリーホン。

人のフリー見て、我がフリー直せ。

 

 

ふと、思い出した。

現在、CSで「刑事コロンボ」を放送しているのだが、それを見て、ふと「古畑任三郎」を思い出し、そこからまたふと、江口洋介さんが出演していた回を思い出した。

 

あれは間違いなく、「ダイハード2」の設定をそのまま使った話だ。

 

「ダイハード2」では、飛行機をハイジャックする話なのだが、「古畑任三郎」では、電車をジャックしていた。

そこからもう、物語に入っていけなかった。

「電車ジャック」なんて犯罪、聞いたことがなかったからだ。

飛行機やバスなら理解できるが、電車をジャックしてどうするというのだろうか?

当たり前だが、電車は線路の上しか走れない。どんなに早く走っても、辿り着く先は、終着駅と決まっている。

線路の上を行ったり来たりするだけで、行動はある程度予測できるし、中の様子も知ろうと思えばできる。まったく緊張感のない犯罪だ。

せめて、JRか大手私鉄の電車を使えれば、まだドラマとして見栄えが良かったが、使った路線がローカル線(たしか、銚子鉄道だったと思う)しかも二両。

まったく迫力がなく、のんびりとした映像になっていた。

「ダイハード2」では、アジトが教会。「古畑任三郎」では、寺とそのまんま。

何から何まで「ダイハード2」そのもの。

しかも、逮捕の決め手が、ボールペンのカチカチという音。

何から何まで、ショボかった。

それが最終回で、前編、後編に分かれていた。

かなりの視聴率を取ったようだが、それにしてもヒドい回だった。

 

ここからは推測なのだが、おそらく三谷幸喜さんには、アイディアがなかったのではないだろうか。苦し紛れで、「ダイハード2」をそのまま使ったのだろう。

そうでなければ、あんな堂々と設定を使ったりはしない。

誰も止めなかったのも、きっと時間がなかったからだ。今更、書き直す時間もない。それに、JRや大手私鉄からの許可を取ろうと思えば、時間がかかる。ローカル線なら、すぐ撮影ができる。

 

苦肉の策の妥協点と言ったところか。

 

昔なら「オマージュ」と言えば、許されたが、今なら確実に大炎上。

古畑任三郎ごと真っ黒こげになっていただろう。

 

三谷さんは、ちょいちょい「オマージュ」を使いたがるが、あれは一種の癖のような気がする。

その手癖の悪さを直さないと、大変なことになると思うのだが、これは要らぬお節介というものか。